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子どもを亡くした母親のお話~キサーゴータミーと諸行無常の教え~

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釈尊諸行無常を説かれました

こんにちは、Tomiです。

私は、葬儀業界に身を置いています。その中では、老若男女問わず、様々なご依頼があります。年齢が100歳を超えていたから大往生、若くして亡くなったからかわいそう、というような短絡的な考えは(個人的には)持っておらず、どのような方でもこの地上世界での人生を精一杯生き抜いたという点において、尊厳を守れる葬儀を提案できるように心がけています。

ですが、やはり身近な方が亡くなるということは、とてもつらいことです。私も祖父母・父親を亡くしておりますし、父親においては60歳で逝っておりますので世間一般からは「まだ若い」という声もいただきました。

こうした「死」というものと対峙するにあたって、やはり一定の答えやヒントを出してくれるのが「宗教」だと思っています。

今回はそんな「死」と向き合うお釈迦様の逸話です。

幼い子供を亡くしたゴータミー

ある日、ゴータミーと名乗る女性が、幼いわが子を亡くし、悲しみに暮れていました。「なぜ私の子どもばかりこんな目に合わなくてはならないのか。誰か助けてください。」そう言いながら子供を生き返らせる薬を探し求め、とうとう釈尊のもとにたどり着きました。

釈尊はこう言います。

「分かった。薬を作ろう。それにはケシの実が必要だ。いまだ死者を出したことのない家を訪ね、その家からケシの実をもらってきなさい。」

ゴータミーは藁にも縋る思いで多くの家を訪ねわたります。しかし、ケシの実はどの家庭にもあるものの、「いまだ死者を出したことのない家」は探すことができませんでした。

そして、ゴータミーは「死は必ず訪れる。そして、遺されたものはみな、その悲しみを背負い、乗り越えて生きてきている」という真理にたどり着き、釈尊に帰依したといいます。

この世のものはすべて移り変わる

釈尊はきっと、ゴータミーの悲しみを深く理解されたのだと思います。そのうえで「諸行無常」の世界を我々は生きている。「生」というものに執着しすぎてはいけない、と諭したのではないかと考えます。

最愛の人の死は、時に想像を絶する精神的ショックを伴います。もちろん、病に倒れている人がいるとなれば、刻一刻とその時が迫っているようで、気がふれそうになることもあると思います。

そこで、釈尊の「諸行無常」の教えが一縷の救いになると思います。

訪れた死、訪れるであろう死に対して極度に不安を抱えたり、悲しんだりするのではなく、その時に後悔を残すことなく「今を生ききる」ことに集中しよう。今与えられているものも、いつかは無くなったり、形が変わったりしてしまう。だから、今ある環境を当たり前と思わずに感謝報恩の心で生きることこそ、悩みや恐怖を断ち切る唯一の力である。

そう、伝えたかったのではないかと思います。

 

深い悲しみの中にあるとき、視野狭窄に陥って「自分だけ、、」と思う気持ちも出てくると思います。ですが、その悲しみを乗り越えた先に、「同じ悲しみを共有してあげられる自分」という成長もあるかもしれません。

きっと、悲しみを癒すために沢山の人が智慧と力を出してくれているはずです。そんな方々と共に悲しみを乗り越え、是非今度は「手をさしのべる側」になっていきたいものです。

ゴータミーかつてそうであったように…🍀

 

最後までお読みくださり、感謝いたします🍀