赤ちゃんから学ぶ
こんにちは、Tomiです。
第一子が先日1歳になったのですが、すくすくと成長してくれていて、うれしい限りです。
また、外で安心して働けるのは妻のお陰だなぁとしみじみ思っておりまして、やはりもう少し二人に積極的に感謝を述べないといかんなと汗
さて、なぜ改めてこんなことを言うのかというと、「生老病死」というのは人間にいつ降りかかるかわからない悩みであり真理であると痛感したからです。
ある葬儀の担当
お仕事で担当をさせていただいた方です。個人情報の兼ね合いがありますからもちろん細かい話はできませんが、お若い方でした。闘病もむなしく…ということでお打ち合わせから担当までさせていただきました。
コロナ禍ということもあり、人数的には少なめではありましたが、参列した方々の悲しむ姿に、故人様の生前の人となりを垣間見たご葬儀でした。
仕事柄、老若男女関わらずお手伝いがあります。改めて思うのは、「死とは平等に訪れる」ということと、「後先関係ない」ということ。
皆、「順番」と考え、先にいくものは後のものから送られるというという形を想像していると思いますが、死は平等であっても公平ではない、のかもしれないのです。
葬儀を通じて、「今、自分は人生を生ききっているのか」という問いが心のなかに現れてきます。
一日一生
皆さんは、やろうと思ったこと・言おうと思ったことを「先送り」にしていませんか?
明日が来ることを確信し、来年が来ることを確信している私たちにとって、毎日は24時間が連続しているように感じられるものです。
ですが、死を身近に感じる人からはどうでしょうか。
明日どころか、半日後、一時間後すらわからない。こうした死を目前に逼迫した状況に置かれたとき、皮肉なことに人は「生」を改めて考えることになります。
もちろん、後悔する人とそうでない人はいると思いますが、漫然と生きている間はこの「生」をしっかりと実感することはないのかも知れません。
一日一生
この言葉がとても心にしみてきます。
一日一生というのは、私の勉強している幸福の科学でも大切な教えとして説かれています。今日一日を、一時間を、一秒を大切に生きようということです。35年間生きてきましたが、これは一日の積み重ね、一時間の積み重ね、一秒の積み重ねなんだなと考えると、やっぱり無駄に時間を消費するわけにはいかない、という思いに駆られるわけです。
わが子に学ぶ
今回の葬儀を通して、家族の絆や親から子への愛情、子から親への愛情などについて感じ取ることができました。そして、ふと、家で待っているであろう長男のことが頭に浮かびました。
赤ちゃんって、「明日やろう」っていう選択肢があるんだろうか、と。
彼(彼女)らは、「今」を100%で生きているのではないかと。
だから、吸収や学びも早いし、発達も早い。眠るときに機嫌が悪くなるのも、もしかすると「もっと生きたい!」と思いつつ、頭がボヤっとしてくることに不安とイライラがたまっているからなのかなと。
こんなに「今」にフォーカスして生きているから、彼らの成長に目を見張ることになるし、愛くるしいし、愛おしいんだなと。これは、自分の子どもだからというだけではなく、一種の「尊敬」の念にも近いようにも感じたわけです。
まるで、自分のやりたいことにフォーカスをして、徹底して自分の人生を生き抜いている経営者・ビジネスマン・成功者の方々に対する尊敬のような。
そして、今回の故人さんも、必死に生き抜いたその生き様に、皆が涙を流されたのだろうなと。もちろん、今も生きていてほしかっただろうし、長く長く生きていってほしかっただろうけれど。
参列された人たちに「生」というものを考えるきっかけを、「自分の生き様と死」を通して与えられた故人様には、深い尊敬の念を覚えたのでした。
少し、とりとめのない文章になりましたが、ご覧になられた方が少しでも「生きる」ということについて改めて考えるきっかけになれば幸いです。
最後までお読みくださり、感謝いたします^^