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【教育論】人を育てるということ【指導者目線】

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こんにちは、Tomiです^^

皆さんの中で、「教育」に携わっている方はいらっしゃるでしょうか。

  • 新人の研修を担当している
  • 学校で教師をしている
  • 子どもを育てている

いろいろな場面に「教育」という問題は高く高く立ちはだかります。

私ももともとは教員志望だったこともあり、家庭教師をさせていただいたり、教育実習に行ったりと、教育畑は身近ではありました。
入社してしばらくすると役職も与えられ、新人の教育、部下の指導などにも携わることが増え、改めて「奥の深い行為」であることを実感しています。

教わる側にももちろん苦悩があると思いますが、教える側も相当な負担がかかることは事実です。「指導する人の指導(フォロー)」という体制が整っていることも、教える側の精神衛生上は大切なことではないかと思います。

本日はこの「教育」に携わることになった人にとって有益な内容になっていますので、ぜひご覧いただければと思います^^

「個性が違う」という大前提

教育に携わる上で重要になる前提が「個性が違う」ということです。
言葉にすると当たり前に聞こえますが、この個性の違いということを真に理解していないと、辛い思いをするかもしれません。

  • 生まれた環境
  • 育った環境
  • 大切にしているもの

など、誰一人とっても同じ人はいません。
企業の新人を指導するにしても、「新卒・中途」「経験者・未経験者」など様々に属性が違います。
特に頭を悩ませるのは「大切にしているものが違う」という部分ではないでしょうか。これは「価値観の違い」と言い換えてもいいかもしれません。

新人の中でもお金を稼ぎたいのか、スキルを身につけたいのか、家庭を重視するのか、など考え方は違います。この部分のすり合わせをしっかりと行わないまま指導を始めてしまうと、思わぬところで離反を食らうことになります。

労働時間なんて気にしないからどんどん仕事をしてお金を稼ぎたい、という人に「疲れてるだろうから早く帰りなさい」と言ってみたり、最低限の仕事と給料さえ貰えればいいと考えている人に「休日も返上して勉強しよう」みたいなことを言ってみたり・・・

今ではこうした話は「ハラスメント」として扱われることが多くなったため、現場で見る機会は減ったかもしれません。しかし、個性と大切にしているもののすり合わせができていない現場は多いと思います。

4月に入社した新人もそろそろ一人立ちし始める頃かもしれません。しっかりと面談ができていないのであれば、一度時間をとって話を聞いてみるのもいいかもしれません。

山本五十六の言葉

新潟県出身の山本五十六氏の有名な言葉を引用します。

やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ

これは、人材育成のときに頻出する名言です。
リーダーがまず率先垂範する。その上できちんと説明責任を果たし、実際にやらせてみる。その結果をしっかりと認めてあげることで人は動くようになる、ということです。

これには続きがあります。

話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば人は育たず

やっている姿を感謝で見守って、信頼せねば人は実らず

先程の「大切にしていることのすり合わせ」というのが「話し合い〜」という部分に現れていると思います。
また、承認して任せることで、相手は育っていくのだと語っています。

最後の一行は、松下幸之助氏も言っているように「祈るような気持ち」で部下に指示をするという思いに通づるところがあるように思います。

ポイントは「相手も一人の人間」であるということをしっかりと認めた上で、対等な立場からお互いの心をすり合わせる。そして、共通の目的に向かって率先垂範しながら導く、という指導者の姿が端的に現れている言葉だと思います。

最後に「信頼せねば」と言っています。信頼とは「信用」よりも重たい言葉です。信用とは担保があることで信じるという、いわば「等価交換」的な側面を含む言葉です。それに対して「信頼」というのは「どんなことがあっても人間として信じている」という高度な感情になります。

指導者は、信頼という「愛の目」でもって対象者に臨む必要があるということです。

この言葉が出たら要注意

指導する側・指導される側、双方ともに「一人の人間」であり、「前提とする知識や環境」が違うことは前項で触れました。

この理解が追いつかないとき、口をついて出てくる言葉があります。それは

「私のときは〜」
「最近の若い人って〜」

です。これは、自分も使ってしまうことがありますが、実は超危険ワードだと思っています。

時代の変遷とともに価値観が変わるということはあると思いますが、それは昔も今も変わりません。自分たちが若かったときはどうだというのでしょうか。おそらく目上の人から「最近の若いもんは」と言われて、少なからずカチンと来たことがあったのではないでしょうか。

時代とともに価値観が変わってきているのであれば、それを感じたときに「受容」し、自らも変わる必要があるというのに、その思考を停止させて「できている今と昔の自分」を混同しながらマウントを取ろうとするワードにほかなりません。

十把一絡げに「最近の若いのは!」と言ってしまうのは簡単ですが、そこはぐっとこらえて一人ひとりの個性を見つめ、いいところを伸ばす訓練をすべきだと思います。

理解できていることしか教えられない

更に、人に教えるという行為の原則に「自分が理解していることしか相手に教えることはできない」というものがあります。

自分の知識の浅いこと、理解が深まっていないことなどを誰かに教えようと思っても、うまく伝わらないことが多いはずです。

それは、自分の中で腑に落ちていないからであり、そのせいで言葉に重みが加わらないためです。

この部分が山本五十六の「やってみせ、言って聞かせて」という部分に現れているのだと思います。

自分で食べたことのない食べ物の美味しさ・不味さを相手に伝えることはできません。自分がかいた冷や汗の回数だけ、部下に注意を促すことができるはずです。
そして、自分が涙を流した回数だけ、部下に感動を伝えることができるはずです。

そういう意味では、教える・指導する側も、常に「学びである」という視点はなくしてはいけません。

あくまで先に業務を覚えていたり、少し早くに生まれ育っただけであり、人間という本質から見れば役割が違うだけ。どちらが偉いとか、上下ということはなく、基本的には横並びの関係であることを忘れないようにしましょう。

指導する側に求められる「資質」

 最後に、指導する側に求められる「資質」について。

それは

対象者を導きたいという熱意

だと思います。

新人の教育というのは、自分でも仕事を行いつつ指導をするわけですから、絶対に100%以上の仕事量が求められます。
それなのに、上司からは「お前が教育担当なんだから」と具体的な指導がもらえないこともあるでしょうし、部下からは「教え方が悪い」なんて反発されることもあるかもしれません。

自分自身は必死なのに、対象者が全然成長しないことにやきもきすることもあるかもしれません。

それでも「自分が先頭となってこの人を導いていくんだ」という情熱と欲求が心にあれば、きっと近い将来自分を支えてくれる大きな存在に育ってくれるはずです。

単なる言いつけられた役割として教育に携わる人は、相手が育ったところで自分の業務は助けてもらえませんし、評価も上がりません。

教育というのは、穴の空いた杓子で桶に水を注ぐ作業に近いのかもしれません。
いつまでたっても桶は水で満たされないわけですが、諦めずに少しずつ注ぎ続ければ、いつかは水を溜め、溢れさせることができるはずです。

全く報われないこともあるかもしれません。
ですが、そのことを恐れて真剣に向き合うことをしなければ、いつまで経っても人は育ちません。

辛くなったときは、自分の先輩に相談してみるといいかもしれません。
具体的な答えは見つからないまでも、同じことを経験しているはずですから、悩んでいるあなたの気持ちを理解してくれるかもしれません。

「あなたもそうだったよ」なんて言われるかもしれませんが、肩の重荷は少し軽くなるのではないでしょうか。

人のことで悩むことができるのは、ある意味で幸せなことなのかもしれません。
人のことで悩んだ経験は、絶対に自分自身に血肉となって返ってきます。

人としての経験と成長は、その人の生き方に「余裕」をもたらします。
余裕のある人の言葉というのは、含蓄があるものです。
そうすれば、より少ない労力で教育ができるようになるかもしれませんからね^^

本日は以上です。

最後までお読み下さり、感謝いたします^^