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【教育論】学ぶときに大切にしたい心構え

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こんにちは、Tomiです^^

以前、2回に渡って、「教える側」と「教わる側」の両視点から、大切にしたい考え方について触れました。どちらの側にたったとしても、お互いに「一人の人間」として尊く、その個性と尊厳を尊重しながら学ぶということが大切であると書きました。

thinkbetter-777.hatenablog.com

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指導する・されるというのはあくまでその時々の役割に過ぎず、立場は常に入れ替わるという点が大切です。これはつまり、

人は常に学び続けている

という視点を持てるかどうかが大切であるということです。

今回も”教わる側”の視点に少し寄った記事になりますが、「何かを学ぶ」というときに大切にしたい心構えについて触れたいと思います。

あくまで私が今まで経験してきたことをベースにお話することになるので精神論的なものになると思いますが、何かのヒントになれば幸いです^^

無知の知

皆さんは、「無知の知」という言葉をご存知でしょうか。ギリシアの哲学者”ソクラテス”が主張したとされる有名な考え方になります。
※厳密には、ソクラテス本人が「無知の知」という言葉を発したり、そのことについて語ったということは無いようです。

無知の知」とは、なんとも不思議な響きですが、ものすごく簡単に言うと

自分は無知(知らない)ということを知っている(自覚している)

ということになります。当時ギリシアでは「ソフィスト」という知識人による”徳を教える”という教育方法が盛んに行われていたそうです。
そんな時代において、ソクラテスは「ソクラテスが一番賢い」という御神託をうけてしまい、こんな無知である自分が一番賢い訳はない、という思いから「御神託が正しいのかどうか」について確認していくという人生が始まります。

結果的にこのことが引き金となり、ソフィストたちから恨まれ死刑にまで至ってしまいます。これは、ソクラテスが「弁証法」という手法で相手の論拠の不備を追求する形になってしまったことが原因です。彼自身はあくまで「自身が無知である」ということを自覚した上で、当時の知識人たちに話を聞きまくっただけだったのですが、弁証法という手法を突き詰めていくと最終的には相手の「無知」を暴くような結果になってしまうため、疎まれたわけですね。

ソクラテスは最終的に「私は、自分が知らない(無知である)ということを知っている。なんでも知っているといっているソフィストたちよりも知っていることが多いという点で、神託は正しかった」と結論づけます。

「学びの姿勢」を忘れない

前項の「無知であることを自覚する」という姿勢は、常に学ぶ姿勢を忘れないというとても重要なポイントになります。教える側も教わる側も、ともに無知であり、学びの途中にある存在。たまたま先んじて知識があるものがあとから来るものを導いているに過ぎず、常にお互いに学び続ける必要がある、ということです。

ですから、先んじて知識を獲得したものはその知識を深める・広げる努力を、これからその知識を蓄えんとするものは素直な気持ちでその知識を吸収することに貪欲になること
このそれぞれの「学び」に対する姿勢こそが「教育」の根底に流れているものではないかと思います。

どんなに指導しても成長しないと嘆く指導者
教え方が悪いと指導者を批判する人たち

どちらも、この「学ぶ」という根本に立ち返り、指導者は指導する方法を、学習者は学ぶという貪欲な心を今一度取り戻す必要があるのかもしれません。

興味関心の幅を広げる

こと「学ぶ側」の視点にたってのお話になりますが、貪欲に知識を得ようとする際に「興味関心の幅を広げる」ということを意識しましょう。

自身が今指導されている・教育されていることのみにフォーカスするのではなく、その先にあるもの、その周りにあるものについても視野を広げることで、様々な事柄に「反応」するようになってきます。

「分からないことがあったら質問しなさい」と指導者が言うことをよく耳にします。しかし、この質問は少し無責任な質問であると言えます。なぜならば、学ぶ側としては「何がわからないかわからない」という状況であることが往々にしてあるからです。
したがって、指導者としては最終的な着地点や周辺知識、背景知識などを交えながら指導することで「(わかる)わからないと反応できる」ようにしていく必要があります。

指導される側についても知識についてのアンテナを最大限に広げ、「言われていること以上の情報を収集する」という姿勢を忘れてはいけません。

知識と経験で「智慧」に

個人的な感覚ですが、この「わからないことがわからない」という状況は、ある情報や刺激に対して反応するだけの「知識や経験」が足りていないことが原因だと思います。

イメージとして「情報や刺激を”凸”」「知識や経験を”凹”」とすると、どんなに凸という形が入ってきたとしても、それを受け入れるだけの凹の部分が不足していれば、体が反応することはないのだと思います。ウィルスと抗体の反応に似ていますね。

つまり、インプットとしての知識と経験を極力増やすことによって、受容体である”凹”の量と種類を蓄える。これによって外的な情報や刺激となる”凸”に対して反応していく。
反応が一度起きれば、次からそのことについて悩んだり、疑問に思ったりすることはなくなります。これが「わかった・理解した」という状況なんだと思います。

そして、この状況に達した情報を智慧というのだと思います。

知識をインプットするだけではだめですし、経験を単に蓄積するだけでもだめ。それぞれを外的要因としっかり結びつけて自分のものにする。これが「智慧を蓄える」と言えると思います。

結論

少し小難しく書いてしまいました。まとめると

  • 「自分は無知である」という謙虚な自覚を持つ
  • 「学ぶ」ということに対して貪欲であり続ける
  • 知識と経験を「智慧」として身につける

というのが、今回お伝えしたい「学ぶときに大切にしたい心構え」になります。

自分もまだまだ発展段階。完全に物事を知り尽くすことなんてできません。ですが、知に対する飽くなき探究心は持ち続けていたいと思います^^

本日も最後までお読みくださり、ありがとうございました^^