”分からないこと”との付き合い方
こんにちは、Tomiです^^
最近、クロームブックでブログの更新をしています。
スマホのデザリングでも快適に動いてくれるので、助かっています^^
ただ、前のようにブログの画像を編集して載せられていませんが、ご了承ください笑
さて、ここ数日、教育論として語ってきているわけですが、これは実生活において最近の”テーマ”にもなっているためであり、親の立場、上司の立場、先輩の立場と様々な状況において教育を行う人たちのために少しでも力に慣れればと思って綴っております。
人に教える・人に教わる、両方のときに気をつけていることと言うか、座右の銘としてもち続けている考えかたがあります。それは
分からない事は罪ではない。
分かろうとしないことが罪である。
分からない、は「知らない」と変えてもいいかもしれません。
結局、どんなに歳を重ねても、分からないことは分からない。そのことを教えてもらおうとしたときには、どんな肩書の人だって「新人」なわけです。逆にどんなに若い人だったとしても、ある分野に精通している人であれば「先輩」なわけです。
人材育成を行う過程で「どうしてこんなこともできないのか」という単語の壁にぶち当たる人が多々います。私の周りもそうです。自分にとっては当たり前にできていること、無意識に行っているためあえて言語化して教えようとするとうまく行かないことなどができない人に向けて「なぜ?」という疑問を呈してしまうわけです。
そして、自分が当たり前に出来ていること、特に誰かから言語化して教えてもらっていない情報になればなるほど、「相手の人間性」を突くような言葉が出てきます。
以前触れたように、人は一人ひとり育ってきた前提条件が全く違います。兄弟であっても考え方が違うわけですから、一歩外に出てしまえば考え方が違うことは火を見るよりも明らかです。そんな中で個人の「当たり前」を常識として振りかざすことは、マウント取りと捉えられかねないので注意が必要です。
しかし、分からないことが罪ではない、と言って逃げ続けられるほど世の中も甘くはありません。知ろうとする努力を怠った場合はやはり他者に対する配慮が疑われてしまいます。
指導者は熱意を持って接してくれるはずです。その思いにしっかりと応える必要があります。また、自身の今まで作り上げてきた常識だって他の人と違う事は往々にしてあります。ですから、他者の歴史背景なども含めて「知ろうとする努力」を怠っては、他者理解などありえません。
情報や経験をするタイミングはゴロゴロと転がっています。
また実際に経験したときに何を学ぶのかということは学ぶ側に責任があります。
同じ事象を通して、深く学ぶ人・広く学ぶ人・全く学びのない人と様々ありますが、そのときに「学ぼうとする意思」を持っていないということは、罪であると思います。
一度学んだこと・経験したことを再度失敗するということも、やはり指導者側の時間を奪うということで罪はあると思います。
知らない・分からないということは罪ではありませんから、臆することなく学び、挑戦して、常に「知ろうとする努力」を怠らないようにしていきたいですね^^
今日も最後までお読みくださり、感謝いたします^^